シティ・オブ・ゴッド

2002年 ブラジル

監督 フェルナンド・メイレリス 共同監督:カチア・ルンヂ 原作:パウロ・リンス(未訳)

 
キャスト:アレッシャンドレ・ロドリゲス Alexandre Rodrigues レアンドロ・フィルミ・ダ・オラ Leandro Firmino da hora

フィリッピ・ハーゲンセン Phillipe Haagensen ダグラス・シルヴァ Douglas Silva マテウス・ナッチェルガリ Matheus Nachtergaele

 
ストーリー
1980年・・・俺の名前はブスカペ・・・
俺は今、生と死の挟間にいる・・・
これはまだ年端もいかないシティ・オブ・ゴッドの子供ギャングと
ギャングにならなかった俺の実話を基にした話だ。
舞台は実在するスラム「神の街」と呼ばれ、銃や麻薬があふれ、
毎日多くの子供たちがギャングに入って殺されていく。

 

 



管理人が大学の1回生の時に授業で序盤あたりを少し教授に
見せてもらったことがこの映画との出会いだった。

そのころは特に自分の勉強をとりあえず頑張っていればいいや
とおもっていた頃で、あまりブラジルにも興味はなかった。だが、ブラジルに関するものなら
何でもいいのでレポートを提出書いてくるようにとの教授(上記の教授と同じ人)から課題があり、
シティ・オブ・ゴッドをみてみることにした。

先ず、この映画はいきなりラストシーンから始まる。まあ、ネタバレというほどのものでは
ないからここでビックリしないように。先ず、ギャングが昼飯のためにナイフを研いでいるところ
から始まり軽快で明るい音楽と共に鶏がさばかれていく・・・命の軽さというかきりすてられかたというのを実に上手く暗示しているなあと思った。

そして一羽の鶏が怖さのあまり逃げる・・・そこで何とギャングたちは銃をぶっ放して
鶏をとっつかまえようとする。跳弾も流れ弾もおかまいなしだ。日本の不良はキレるとナイフを出すが、彼らにとってはベレッタやリボルバーがそうなのである。

そして鶏を追うギャング共と主人公ブスカペが鉢合わせになってしまう。ブスカペは臆病であるため、ギャングと関わりあいになるのが嫌いで、特にギャング共を率いるボスと会うのがイヤでイヤでたまらなかった。そしばらく睨み合いになるが、すると主人公の背後から警察があらわれる。やばい・・・!絶体絶命のピンチだ。と次の瞬間、主人公の周囲が回転し、物語は彼の少年時代の1960年代へと戻る。
ここから主人公がいったい何者なのかがあかされ、鉢合わせしたギャングのボスの正体も
あきらかとなっていく。ギャングのボスとなる少年リトル・ダイスは主人公と同じく
少年だったが、強烈な悪党だった。彼の兄貴分だった3人組のギャングに人殺しの罪をかぶせるために襲撃先のモーテルの宿泊客や従業員を皆殺しにする。映画ではこのシーンの時に逃げる3人組たちに
視点をおいているために誰が彼らをはめたのかわからない。罪をかぶせられた3人組のうちのカベレイラは恋人のベレニスと逃げようとするも警察に撃たれて死ぬ。その死体を撮影したカメラマンの姿を見た主人公は将来の夢を気にするようになる。時代は変わり、警察に追われていたはリトル・ダイスは街に戻り、リトル・ゼと名前を変えて戻ってきた。彼は街で有力なディーラーたちを次から次へと殺していき、
持っていたシマを乗っ取ってしまう。そこから、彼は神の街を支配する有名な
ディーラーとなる。 映画では過去・現在・未来という通常の時間軸で話は進ませず、
先ず最初にリトル・ゼが現れ、そこから1960年代のあの事件で彼が何をしていたのか
をえがき、そしてディーラーたちをころしていき、リトル・ゼが現れたところからまた話が進む。つまりは、現在・過去・現在・未来という感じだ。

ただ単に時間の流れにあわせて作品をつくるのではなく、いったん回想に入って今に至るまでに
何をしていたのかという説明をするという手法がこの映画ではやたらつかわれており、まるで推理映画をみているような気分にさせてくれる。
回想ではちゃんと主人公ブスカペのナレーションがはいるため、混乱せずにストーリーを追えるのが親切なところ。明るく、クールなBGMは退屈せずにストーリーに綺麗な飾りつけをしてくれる。

そしてリトル・ダイスが別々の売人のものだったシマを一気にまとめたことでスラムでは銃撃戦も
人殺しもレイプもなくなり、街を平和にした人物として彼は街人の人々からの信頼を得る。

そしてリトル・ダイスの武勇伝でも言えるエピソードの数々から離れ、主人公の青春時代が語られる。
「あの頃は大好きな女の子と一晩を共にして童貞を捨てたいという気持ちで一杯だった。」とブスカペは恥ずかしそうに語り、健康な男の子なら当然の悩みをかかえていることがあきらかにされる。

リトル・ゼのカリスマ的な個性とは逆に、ブスカペの個性は誰でも痛いほど分かる悩みを持っているということだ。これこそがブスカペのキャラをリトル・ゼに殺されないためのいい味付けだ。

もしくは、ギャングの話ばかりで疲れた観客への休憩時間のようなものと考えてもいい。また、一つ遠い国の物語だった作品に日本人の観客を近寄らせる監督の作戦ともとれる。

また、親友に彼女(主人公の好きな女の子)が出来てしまったせいで、ひとりぼっちになってしまった
リトル・ゼが女の子に声をかけるが、そっけない反応をされてプライドを傷つけられるシーンは
冷酷で人殺しもいとわなかった彼にわずかな人間性をあたえている。親友に先を越されるあの悔しさや、
一緒にいられるような恋人もいないというあの気持ちは男子であれば誰だって理解出来る気持ちだろう。

そして、その親友が自分の身代りとなって殺されてしまい、何もかも失ってしまったリトル・ゼは
今まで親友の友達であったギャングのボスのセヌーラと火炎瓶や銃弾の飛び交うほどの
熾烈な縄張り争いをするようになり、街はベトナムとよばれるほどまでに荒廃してしまう。
そして遂には今まで自分の縄張りの掟(人殺しはしない、女をレイプしない、すれば死刑。)
を次々と自分でやぶり、街人からの信頼も失い、警察にマークされることとなる。

この荒廃した街はリトル・ゼの荒んだ心をあらわしているといっても過言ではない。
自暴自棄になって何もかもぶっこわしてやりたくなる気持ちを人がもってしまった時に
この街ではそれを防ぐ手段は何もない。目の前にある銃は、彼の思いを簡単に実現してくれるし、彼の気にいらない人間は引き金を引いて直ぐに消すことが出来る・・・そのせいか、命というものが物みたいに思えてしまう。 


リトル・ゼのつかいっぱしりになった少年ステーキがセヌーラの一味に捕まった時に
言ったセリフ「ヤクもやったし、人殺しもした。もう僕は大人だ!」というセリフには
ため息をつくしかなかった。この町ではもう当たり前のことなのかと・・・そして、今まで殺されることを心配せずに生きてきた自分は何てめぐまれているのだろう。今の生活に不満ばっかりこぼしている自分が贅沢に思える。こめかみに強烈なパンチを食らったような衝撃を感じた。
結局、ステーキは抗争で死んでしまう。


人を傷つけることに勇気も必要ないし、覚悟も必要のない世界・・・また、自分もそうされても
文句の言えない世界だ。最後、リトル・ゼは自分が苛めたギャングのなり損ないのガキ軍団に
全身に銃弾を浴びせられてあっけなく死んでしまう。 


そして、ブスカペは彼の死体をカメラで撮影し、「神の街」のギャングのボスの死体の写真でカメラマンとしての道を切り開き、ウィルソン・ロドリゲスと名前を
変えて街を去っていく。
これは映画を見終わる観客の心理をまさに具現化している。ようやくこんな怖い街から抜け出せたという
主人公の嬉しいという気持ちは観客の嬉しいという気持ちと全く同じ嬉しさだろう。
だが、ウィルソンとなった彼が去った後、リトル・ゼを殺ったガキ集団がまた殺し合いの話をしている。
観客に背中を向けて歩く彼らのその背中はかつてのリトル・ゼの少年時代を思い出してしまう。
それは彼らの「観客はただ僕らの背中を見て送り出すしか出来ない」というメッセージであろう。

そんな彼らを送り出す明るい音楽も、なんだか子供たちの未来がこれからも何もかわらず
当たり前のように
続くのだということを暗示しているかのようだ。 実際、今でもファヴェーラに住む子どもたちは犯罪に手を染め、
ギャングに殺されたり、ジャンキーになってしまっている。そして、彼らをすくう筈の警察もただ彼らを棒でなぐり、
銃で撃ち殺すだけだ。

もし、劇中の音楽が悲しい音楽になっていたら、彼らの生活は変わったのだろうか・・・
そういう疑問を感じられずにはいられなくなった作品だった。



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